夏生の知らない母の生まれ育った家で、宮本は母にピアノを教わっていたのだろう。
この人も、母の美しいピアノの音色を知っているのだ。そう思うと、夏生はすこし嬉しいような気分になった。
そんな人が、遠い昔の約束を覚えてくれていて、自分を迎えに来てくれた。
母を失って哀しみの暗闇に沈み込んでいた夏生にやさしく手を差し伸べてくれたその人が、いま眼の前にいる。
「何を微笑っている?」
この再会を母に感謝していた夏生に、男は何故かやや不機嫌そうに眉を僅かに歪ませた。
「君は、自分の置かれた状況を何も理解していないようだな」
「……え?」
「君の兄に貸した金額は二億だ。高が二億の金で、隆一君は君を棄てた」
男の云っている言葉の意味が、理解できなかった。
「どうやら、おまえは何も聞かされていないようだな」
呆れたように溜息をつく宮本を、夏生は大きな瞳をいっぱいに開いて見つめた。
「夏生。もうおまえには帰る場所などどこにもない。金と引き替えに、おまえの兄はおまえのこれからの未来をすべて私に売り渡したんだよ」
「……それは、どういう……」
軽く回っていた酔いが、一気に醒めていくのを感じた。
声が顫(ふる)えて、言葉がうまく続かなかった。
「おまえのような音楽家などを目指す弟など自分には不要だと、君の兄さんは云っていた。隆一君が棄てたがっていたおまえを、私が買い取ってやったんだ」
「僕は……、兄さんに棄てられたのですか……?」
「夏生、おまえはこれから私の許でこれまでどおりピアノの勉強を続ければいい。生活費、学費の心配など必要ない。せっかく現役合格で入った藝大だ。そちらも辞めることはない」
ただ……と、男は低い声音で続けた。
「忘れてはいけないことがある。おまえは私の所有物だとうことだ」
その時、男は再会してから初めて、恐ろしいほどのやさしい笑みを夏生に見せた。
この続きは『あなたの指は僕を奏でる』
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