プロローグ
物心ついたときには、すでに母の視線は自分を捉えなくなっていた。
父には、抱かれた記憶すらない。
「おまえがこんな顔で生まれなければ」と母は言った。
「私の子ではない」と父は言った。
ではなぜ自分はここに存在しているのか。
なんのためにここにいるのか。
幼いころからずっと疑問だった。
ただ兄だけが、小さな手をぎゅっと握って、傍にいてくれた。
己の存在意義を確たるものにする言葉は、何ひとつかけられはしなかったけれど、それでも唯一のよりどころだった。
存在意義を探して、敷かれたレールの上を、ただ黙って歩く人生。
逆らえば、すぐさま足元は崩れて、二度と修復がきかない。その危険性を、ずいぶん早いうちに自分は認識していたように思う。
必要とされたくて、ここにいていいのだと言われたくて、ただただ必死だった。
己を殺すことは、そのための第一歩であって、惜しむべき事柄ではなかった。
なぜなら、人並み以上の結果を残してさえ、自分は正しく評価されないから。――父は、自分を振り向いてくれないから。
母は、最後まで己の不幸のみを嘆き、夫の横暴を罵り、息子の心痛に目を向けることなく逝った。
哀しかったけれど、少しホッとしたのを覚えている。
次こそ、この次こそ、求められた以上の結果を示せば、父は振り向いてくれるだろうか。
自分はここにいていいのだと、思えるだろうか。
そんなことばかり、考えてきた。今も、考えている。
ほかに生き方を知らなかった。
それ以外に生きる意味があるなんて、知らずに生きてきた。――極寒の地を踏むまで。
1
正式なアポを取りつけたはずだった。
だというのに、散々待たされた挙句、やっと姿を現した交渉相手からいわれのない侮蔑の言葉を浴びせられたとあっては、特別気の短い性質でなくとも、さすがに気色ばむというものだ。
「今度はまた毛色の変わった男娼を送り込んできたものだな。その趣味はないと言ったはずだが?」
北国には珍しい濃い色の金髪と、対して冷ややかな色味の碧眼。サイドへゆるく流された金糸が一房二房額に落ちかかり、退廃的な色を濃く見せる。ひと目で質の良さがうかがえるロングコートに身を包んだ長身は、外気の冷たさをまとったまま、咲人の前に立った。
「日本人か」
長い指に頤を掴まれ、くいっと顔を上げさせられて、上から威圧的に睨めつけられる。
細められた碧眼に滲むのは、あきらかな揶揄だ。
――男娼!?
あいさつをする間さえなかった。とんでもない勘違いをされて、咲人は濃く長い睫毛に縁取られた大きな瞳を見開く。
たしかに咲人は、骨組みの細い華奢な体格で、肌理細かな白い肌といい、指通りのいい艶やかな黒髪といい、幼いころにはズボンをはいていても少女に間違われた整った容貌をしているが、生まれゆえの品位に加えて立場なりの上質な品を身につけているから、はなやぎを売る人間独特の艶のようなものとは無縁だ。それが「毛色の変わった」と評された部分なのかもしれないが、だからこそ自分を男娼と勘違いするなど、ありえないことだ。
「……っ!? 私は……っ」
カッと色をなしたものの、違うと返す隙も与えられなかった。
「帰れ」
短く放たれた高圧的なひと言が、説明を口にしようとした咲人の唇を強張らせる。それほどの迫力があったのだ。
「時間の無駄だ」
人の話を聞こうともせず背を向ける男に、それでも咲人は懸命に追いすがる。
「話を……」
「報酬が欲しいのなら支払ってやる。さっさと消えろ」
咲人を強引に売り込みにきた男娼と誤解した交渉相手の男は、まったく取り合わず、それどころか、そんなに欲しいならくれてやるとばかり、買ってもいない男娼相手に金を恵んでやろうとすらするのだ。
「私は仕事の話をしにきたんです!」
たまりかねて叫べば、
「留学生か? その歳で仕事をはじめるのにはよほどの理由があるのだろうが、やめておくことだな」
日本人が若く見えるとはいえ、社会人になって数年経つ咲人を学生と間違えた上、せっかくロシア語が話せるのだから別の仕事を見つけろ、とアドバイスまでして、そのまま目の前を通り過ぎて行こうとする。
埒が明かないと判断した咲人は、自分がなんのためにここにいるのかを、端的に表す言葉で男を呼びとめた。
「お待ちください! ヴォール・フ・ザコーネ!」
広大なロシアの地に跋扈するそうした組織において、トップ・オブ・トップを意味する呼称。通常「ヴォール」と略されることの多いそれは、勝手に名乗ることを許されない、限られた人間にだけ与えられた呼び名だ。
だがそれは、逆効果でしかなかったらしい。男の足を止めることはかなったが、それだけだった。
「……っ!」
振り返った美しい相貌は、闇をまとった悪魔のそれに似て、咲人の細い身体を硬直させる。
返された声は、先ほどまでの呆れと茶化した色を消し、不快の色を強めていた。
「軽々しくその呼び名を口にするな。――死にたくなければな」
たしかにその肩書を持つはずなのに、いったい何が逆鱗に触れたのか。その世界の常識を知りもしない素人が、軽々しく口にするな、という意味だろうか。
だが、わかりやすい恫喝の言葉が、逆に硬直を解いて、咲人は長い睫毛を瞬く。「死にたくなければ」と最後に付け加えられた、脅しとしか思えない言葉が、むやみに踏み込むなという忠告に聞こえて、それがおとなしい外見に隠された咲人の負けん気に火をつけたのだ。
案内人の制止の声も聞かず前にまわり込んで、男の足を止める。
その行動が思いがけなかったのだろう、男はわずかな驚きと不快感とともに碧眼を眇めた。
「鬼柳院咲人と申します。あなたにお願いがあってまいりました。――ヴォール」
軽々しく口にするなと諌められた呼び名を、あえて使う。こちらの覚悟を知らしめるために。
この続きは『禁断ロマンス』
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