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自分は決してトラブル体質ではないはずだ。
三十年あまりの人生、勤勉とばかりはいえないものの、社会秩序を乱すような生き方はしてこなかったと自負している。
手前味噌ながら、異性はもちろん同性にも訴えかけるところの大きい、美しいと形容される容姿を最大限利用して、契約の数字を上乗せしてみたり、取れないはずの仕事を取れるように画策してみたり、政治家や官僚に取り入って、えげつない妨害工作をしかけてきたライバル社を蹴落としてみたりなんてことも、ときにはしているが、そんなものは二十四時間戦う企業戦士にとって日常であり、咎められるいわれはない。
鈍感なタイプではない。それどころか目端は嫌になるほど利く。察したくないことまで察してしまって、自分の頭の回転のよさが恨めしくなる場面も多いくらいだ。よって、危険を察知する能力にも長けている自負がある。
日ごろの行いを反省したくなるような事態に巻き込まれる覚えもなければ、危険を承知でわざわざ巻き込まれに行くような酔狂さも持ち合わせてはいない。
だから、今現在なぜ自分がこんな事態にみまわれていなくてはならないのか、まったくもって理解できない。
わかっているのは、足元に行儀よくお座りする大型犬の存在と、自分を煤けた壁に押さえつける無遠慮な男の背後を駆け抜けていった実にわかりやすく犯罪者面をした一団と、そして、恩を仇で返してくれた目の前の男の存在。
図々しいことに、断りもなく自分の唇を奪い、壁に押さえつけて離れない大柄な男。
こいつをどうしてくれようかと、思案を巡らせる前に再び鼓膜に騒々しい足音が届く。それにピクリと男の肩が反応した。
――なんだ?
言葉を奪うように合わされた唇は、それ以上踏み込んでこようとはしない。
腰を抱く腕の力強さとはうらはらに、半ばのしかかる大きな体躯は、どこか奇妙に頼りなく、こちらに体重をあずけてきている。
接待相手を、送り届けた直後のことだった。車に戻ろうと大通りに出る途中、人の呻きのようなものを聞いたのは。
厄介ごとは御免だと思っても、人道に反することはできない。ただの酔っ払いや浮浪者ならスルーだが、怪我人や病人なら一一九番通報する必要がある。それくらいの良識は持ち合わせている。
そう思って、路地を覗き込んだ。
薄暗いなかに捉えたのは、蹲る人と思しきシルエットと、それに寄り添う大型の獣のシルエット。
その獣が、首輪をした犬――ジャーマン・シェパード・ドッグであることにまず気づき、それから蹲る大柄な男の顔色が蒼白であることに気づいた。
散歩途中に体調が悪くなったのだろうか。
夜遅い時間に犬の散歩をする人は少なくない。特に、都会に住む人の生活時間はさまざまだ。
様子をうかがいつつ歩み寄って、声をかけた。「大丈夫ですか?」と、「どうかなさいましたか?」と。
犬は、よく躾けられているのか、吠えることもなく、かといって尻尾を振るわけでもなく、ただじっとしていた。
呼びかけに応えるように男がゆっくりと顔を上げて、そこに見た眼光の鋭さに気圧され、一瞬言葉を失った。暗がりのなかでも、闇を見据える獣のように、その目は爛々と剣呑な光を宿している。
ゾワリ…と全身が総毛立って、首筋が震えた。――と、思った次の瞬間、グラリと男の身体が前に倒れてきて、反射的に両腕を差し伸べていた。
声をかけようとした。
だが、できなかった。
発しかけた言葉を遮るように、唇を塞がれたからだ。直後、バタバタと騒々しい足音が近くを駆け抜けた。
ただの変質者だったのかと、瞬間的に過った思考は鼓膜が拾った足音の物々しさに押し流されたものの、だからといって不埒を働かれている事実に変わりはない。
そして今現在。
さてどうしたものかと、思考をフル回転させているわけだが、これといって上手い手立ては浮かんでこなかった。
すると、唇が離れ、低い呟きが落ちてくる。
「――くそっ、しつこいやつらだ」
「おいっ、おまえ、いったい――」
不埒な行為に対する詫びの言葉もなく、意味不明な内容を耳元で毒づかれて、プチッとコメカミあたりで何かが切れた。
だが、それを咎めようとする声は、再び口づけに塞がれる。高い鼻梁がブリッジに当たって、細縁の眼鏡がずれた。
「悪い、騒がないでくれ」
「な……っ、……んんっ」
今度は舌まで差し込まれ、罵声を喉の奥へ押し戻される。
このやろう……っ! と心中で毒づいたときだった。再び、あの剣呑な足音が鼓膜に届いたのは。
『おい、見つかったか?』
『いや、駄目だ』
『あの野郎、どこへ隠れやがった!?』
『ちくしょう! なんで俺らが尻拭いしなきゃならねぇんだよっ』
『ブツブツ言う前に捜せ!』
全部で四、五人だろうか。何かを捜している様子だ。それが目の前の男であることは、先に男が零した呟きに状況を加味すれば、容易に推察可能だった。
その足音が、徐々に徐々に遠のいていく。
どのくらいの時間が経っただろう。三十秒か一分か、はたまた五分だったのか。
耳に届くのが、車の行き交う音を主とした、街に生まれるごくあたりまえの生活音のみになってしばらく、おおいかぶさっていた肉体が身じろいだ。
「……っ」
漏れたのは、低い呻き。
「おい? おまえ、いったい何――」
こちらはたまたま通りがかっただけなのだ。妙なことに巻き込まないでほしい。
とりあえずこの手を放せ! と肩を押したところ、思いがけずあっさりと男の身体が離れて、逆につづく言葉を失った。
なんだ? と思ったときには、視界をおおっていたものが消えていた。
ふいに開けた視界の端で、何かが動く。犬だ。犬が、腹を抱えて蹲った男の傍らに擦り寄ったのだ。
「おい?」
恐る恐る視線を落とす。動かない男の傍らに寄り添う犬が、救いを求めるように顔を上げた。
この続きは『恋より微妙な関係』
本文でお楽しみ下さい♪♪