Prologue
「……ッ、い、いてててて――ッ!」
突然、我が身を襲った激痛に、佐藤仁志起は絶叫を上げた。
マジで痛い。死にそうなほど痛い――しかも、なんだか、とんでもないところが!
すごくいい気持ちで眠っていたというか、ウトウトしていたはずなのに、この激痛はいったいなんだと、あわてて身体を起こそうとするが、伸ばした手は押さえ込まれた。
「暴れるなよ、急に」
「へッ?」
「どうしたんだ? さっきまで、おとなしかったのに……」
甘ったるい声で耳朶に注ぎ込むように囁いたのは、きれいなクイーンズ・イングリッシュ。
激痛に仰け反っていた仁志起は、息が止まりそうなほど驚きながら、自分に覆い被さっている声の主に目を向ける。
そして、またしても心臓が口から飛び出しそうなほど驚いた。
目の前にいるのは金髪に青い瞳の、やたらとハンサムなガイジンだったからだ!
少し乱れた金髪がセクシーに額にかかった彫りの深い顔立ちは、鼻は高いし、目は真っ青だし、引き締まった口元にも品があるし、とにかく整っている。女の子なら目が合っただけで、キャー、と絶叫しそうな美貌だ。
しかも驚くべきことに、彼は服を着ていなかった。
少し汗ばんだ太い首筋から厚みのある広い肩、さらにしっかりと筋肉がついている胸元まで、惜しげもなく素肌を晒している。
つい、まじまじと目を向けてしまった仁志起だったが、ふと視線を下げると、自分もまったく同じ格好であることに気がついた。しかも生まれたままの姿になって折り重なっている自分たちの下腹部が、ぴったりと隙間なく密着していることも。
とても現実とは思えず、この目で見ても信じられなかった。
赤ん坊がおしめを取り替える時のように、あられもなく左右に押し開かれている両脚の間には彼の腰があった。しかも両脚の間の、さらに奥まったところには、やたらと固くて大きいものが深々と入り込んでいる違和感まであるのだ!
そう気づいた瞬間、あらためて引き裂かれるような痛みを感じて、仁志起は呻きながら身体をくねらせた。
「……マ、マジ、かよッ、信じらんね――ッ!」
「お、おい、暴れるなと言ったぞ」
叫んだ仁志起の上に覆い被さっていた相手は、あわててつかまえていた両手首をベッドの上に押さえつける。その瞬間、互いの繋がり合っている部分がねじれて、あまりの激痛に、仁志起は息もできなくなって声のない絶叫を上げた。
「……――――――ッ!」
「くっ……」
痛みに全身が凍りつくと繋がった場所まで窄まってしまい、そこに収まっている相手のものも、きつく締めつけてしまったらしい。
整った顔をしかめながら低い声で呻いた相手は、喘ぐように訴える。
「頼むから……そんなに、きつくしないでくれ」
「し、知るかッ、ンなこと!」
「……ニシキ」
「なッ、なれなれしく名前を呼ぶなッ……レ、レレ、レイプしてるくせに!」
痛みと悔しさに怒鳴りつけようとしても、声は弱々しいものにしかならない。それが、さらに悔しくて腹立たしい。
悔しさのあまり、仁志起は涙まで浮かんできた。
だいたい、同じ男に強姦されるなんて情けないにもほどがある。
確かに体格のいい外国人に比べたら、日本人の仁志起は童顔だし、体型もコンパクトだ。
もともと日本にいても幼く見られ、年齢通りに見られたことは一度もなかっただけに、海外に留学するとなったら、外見で誤解されるのは覚悟の上だった。
なにしろ、真っ黒な髪は天然パーマのくせっ毛で、いつでもクルクルとやわらかく四方八方に跳ねているし、黒目がちの瞳や口元にチラリと覗く八重歯のせいか、リスやハムスターのような齧歯類系だとからかわれることも多い。
さすがに今年で二十八歳にもなった男が、そんなふうに言われると落ち込むが、しょっちゅう言われ続けたせいか、もう慣れるというよりも、あきらめの境地に入っている。いちいち文句をつけるのも男らしくないし、言いたきゃ言え、という感じだ。
けれど、だからといってレイプしたかったらすればいい、なんてことは絶対に思わない。
涙目になった仁志起は、それでも怒りもあらわに相手を睨みつけた。だが、意外なことに相手も驚いたように青い目を見開いていた。
「レイプ……?」
「そ、そうだよッ、合意のないエッチのことを、レイプっていうんだろッ!」
仁志起が喘ぐように言い返すと、相手も戸惑ったように呟く。
「待て、合意がないって……誘ったのはきみだぞ?」
「……さッ、さささ、誘っただとォ?」
「ああ、そうだ。さんざん、僕のことをハンサムだとか、きれいな目だとか誉めてくれたのは、ニシキのほうじゃないか」
「だから、なれなれしく呼ぶなよッ、オレの名前を! オレは、おまえの名前も顔も、まったく知らねーんだから!」
すっかり混乱してしまった仁志起が逆ギレして叫ぶと、おもむろに身体の繋がりを解いた相手が溜息混じりに呟いた。
「名前は最初に教えたはずだ。さっきまで何度も呼んでいたくせに……」
「な、なんだって……?」
覆い被さった身体を乱暴に押し退けながら仁志起が目を丸くすると、乱れた金髪を鬱陶しそうに掻き上げた相手が答える。
「ジェイク……ジェイク・グレアムだ」
「……ジェイク?」
震える声で呟いてみれば、確かになんとなく覚えがあるような、ないような、不思議な感覚があった。とんでもない場所は身体を離した今もなお、信じられないほど痛かったが、その痛みも吹っ飛ぶくらい仁志起は呆然としてしまった。
頭の中は大パニックだ。
びっくりマークとハテナマークが、手に手を取ってグルグルと舞い踊っている。
すると動揺する仁志起の顔を、じっと見つめていた相手が――ジェイクと名乗った彼が、ふと思いついたように訊ねてきた。
「もしかしたら、ニシキ……きみって、酒に弱いんじゃないか?」
「よ、弱かったら、なんだよッ!」
実はものすごく弱い仁志起は、虚勢を張って言い返した。
だが、これまでに何度も、酒に弱いくせに見栄を張って飲んだことで大失敗をしてきた数々が脳裏に甦ってくると、どうにも嫌な予感がするというか、もしかしたらまたやっちまったのか、という不安が押し寄せてくる。
呆れたように自分を見つめている真っ青な瞳から、いたたまれなくなって顔を背けた仁志起は心の中で叫んだ。
(で、でも、それにしたって、念願だった留学先の学校に――ボストンにたどりついた初日に、バック・ヴァージン喪失ってのはねーだろ!)
しかし、どんなに嘆いても現実が変わるはずもない。
これが仁志起の留学初日、アメリカ上陸一日目の出来事だった。
|
「……ついに来たぜ」
思わず、仁志起は声に出して呟いた。
悠々と流れるチャールズ川沿いに、緑に埋もれるように並んだ赤レンガの建物が見えた途端、バスの座席から大きく身を乗り出してしまう。
そこに建っている立派な建物が、これから二年間、仁志起が通う学校だった。
マサチューセッツ州ボストンの郊外にあるアメリカ最古の大学――ハーバード大学は、今まで何人もの大統領や何十人ものノーベル賞、ピューリッツァー賞の受賞者を世に送り出した名門中の名門、トップスクールだ。
ここは、日本でいうところの四年制大学にあたるラドクリフ・カレッジと、十の大学院を持つ総合大学でもある。大学院のほとんどはプロフェッショナル・スクールと呼ばれていて、高度な専門知識を学ぶための教育機関である。
そして、ハーバード大学にある大学院のひとつ、常に優秀なビジネスリーダーを養成し続けるビジネススクールとして全米でも名高い、いや、世界でも圧倒的な知名度を誇り、トップクラスにあるのが、通称HBS――このハーバード・ビジネススクールだ。
(……それにしても、まさか、オレが受かるとはな!)
そう独りごち、座席に座り直した仁志起はにんまりと微笑む。
なにしろ、世界でも有名な名門校であり、超難関校なのだ。
競争率も半端じゃない。
ビジネスエリートの学位と言われ、企業の経営幹部、上級管理職になるためのパスポートとも言われているようなMBA――経営修士号を無事に卒業して手に入れることができれば、就職先に困ることもなく、さらには一千万以上の高額な初任給が約束されたも同然なのだ。特にアメリカのトップスクールのMBAホルダーは引く手あまただ。
ハーバードビジネススクールでMBAを取ったといったら、もう世界のトップクラスの学閥に加わったようなものだからだ。
それだけに入学希望者の出願書類は世界各国から送られてくる。
ビジネスシーンで即戦力となりうるエリートを育成するビジネススクールでは、入学希望者の国籍や年齢、性別も問わない。
国際色豊かな学校ということもあって、いろいろな可能性を持った多才な学生を集めるために広く門戸を開いている。
問われるのは英語で学ぶ語学力と、それまで培ってきた自分自身の能力だけだ。だから、日本の大学受験と同じように考えていると、痛い目に遭う。
仁志起は、ひょんなことからMBA留学を目指すことになって、さらに難関中の難関でもあるハーバード・ビジネススクールに合格したが、正直に言うと自分でも何かの間違いじゃないかと思うことがあるくらいだ。
一応、幸いなことに語学力というか、英会話に問題はなかった。
幼い頃から柔道や空手をやっていた仁志起は、通っている道場が外国人も多く訪れるところで、そういう環境もあって、言葉もわからない相手と一緒に稽古をするうちに興味を持ち、学生時代、もっとも真面目に勉強したのが英語だったからだ。
海外留学にはつきものの英語能力試験・TOEFLや、ビジネススクール合格を目指すために必要になるGMATではちょっと苦労したが、それでもなんとか合格ラインの点数を取ることができたし、海外でも日常会話程度では困ることもなかった。
だが、そうはいっても、入学希望者が用意しなければいけないのは、GMAT、TOFELのテスト結果だけじゃなかった。
さらに卒業した大学でお世話になった教授や働いている会社の上司からの推薦状も必要であり、他にもエッセイと呼ばれる英語の小論文というか、学校側が用意したテーマに沿って自分の考えをまとめたレポートも重要になる。
その上、アプリケーションと呼ぶ出願書類を書く作業も、これがまた一苦労だった。自分の名前や生年月日、家族構成といった基本的な情報だけならまだしも、これまでの仕事の内容や年収、さらに自分がどういった成果を上げてきたのか、決められている短い文字数の中でまとめなければいけないからだ。
しかも、日本語でも面倒だと思う内容を、すべて英語で書くのだ!
はっきりいって何度となく挫けそうになったが、それでも半べそをかきながら踏ん張った。
幸いなことに、ここでも幼い頃から続けてきた武道が功を奏したというべきか、道場で一緒に稽古をしていた外国人実業家のツテで、海外のビジネススクールに留学したい人が通う予備校に入ることができたからだ。なにしろ、この予備校のサポートがあったおかげで、なんとか仁志起も合格にこぎつけることができたようなものだ。
でなければ、当時、勤めていた会社の社費留学制度がなくなって、途方に暮れていた仁志起は、どうやってMBA留学を目指せばいいのかわからなかった。
これでも仁志起は、そこそこ名前の知られた国立大学を卒業後、大手と呼ばれるような企業に就職したが、そこは企業留学、社費での海外留学を支援する制度を取りやめたばかりで、少しも力になってもらえなかったのだ。
会社側の言い分では、高い金を使って留学させたとしても、MBAホルダーとなった社員は、さっさと退職してしまうことが多いから無駄だ、と言うことらしい。
確かに、今でも年功序列が幅をきかせる古い体質の日本の企業の中では、ビジネススクールで学んできたことを生かせないということもあるだろう。
留学制度を廃止しなかった会社でも、社費で留学した社員は帰国後、数年は辞めないと誓約書を書かされるという話も聞いたくらいだ。
そんなわけで、仁志起は結局、ハーバードビジネススクールからの合格通知をもらうと、まず会社を辞めた。休職という道もないことはなかったが、すっぱり潔く、不退転の決意で留学することに決めたのだ。だが、企業留学をあきらめた時からネックになっていたのが、留学資金の調達だ。
二年間に渡る留学期間中、授業料や生活費を含めておよそ二千万円以上かかるという費用を、どうやって捻出するか、これが頭の痛い問題だった。
それでも予備校で親身になってくれたアドバイザーから、とにかく一年目の費用さえあれば、残りは留学してからでもなんとかなると教えてもらい、子供の頃からの定期預金や就職してからの積立貯金、さらには母親のへそくりに父親が当てた万馬券、それでも足りない分は祖母の年金や親戚にも頼み込んで借金をして、それこそ逆さに振っても何も出てこなくなるような状態まで一切合切掻き集めて、やっと用意したのだ。
はっきりいって、仁志起は東京の下町に暮らす、ごく平凡な中流家庭に育った。
それだけに両親や祖母、親戚さえ、ビジネススクールやMBAと言われても意味がわからず、首を傾げてしまうような環境だ。けれど仁志起が必死になって勉強して、アメリカの有名な学校に合格したと知ると、足りない留学資金に協力してくれたのだ。
ここまできたら、もう本気でやらなきゃ男が廃る。
(とかいっても、やっぱ資金が足りなくって、この夏は最後の荒稼ぎをしてきたけどな)
そう独りごちながら、ようやく到着した目的地のバス停で、仁志起は大荷物を引きずるようにバスを降りた。
九月になろうというのに、いまだに夏の気配が残った緑の深いビジネススクールのキャンパスは、なんとなくのどかだ。
広々とした敷地のあちこちには真新しい建物が建ち並び、芝生の上で楽しそうに日光浴をする学生らしきグループも多かった。
明日から新学期が始まるだけに、これは嵐の前の静けさなんだろうか。
本来、英語が母国語ではない海外の留学生の多くは、七月下旬から渡米して、[Pre-MBA]というサマースクールに参加することになっている。
そこで英語で勉強するノウハウや、ビジネススクール独特の授業に慣れてから、九月の新学期を迎えることになるらしい。
しかし、仁志起は土壇場になって留学資金が少々足りないことがわかって、面接での語学力も問題がなかったと大学側に食い下がり、サマースクールを免除してもらい、あわてて夏休みの間、バイトをして稼ぎまくってきたのだ。
でも、おかげでなんとか当座の生活資金も貯められたし、バイト先で多くの人から留学祝いや餞別をもらうこともできたので、まあ、結果オーライだ。
バスを降りた仁志起はバックパックを背負い直して、大荷物をくくりつけたカートをキイキイと鳴らしながら、木漏れ日が射す道を歩き、最初に訪ねるように連絡をもらった学生オフィスに向かった。
オフィスに入り、真っ先に目に入った小太りの女性に、意気揚々と書類を手渡す。
ここで学生証に当たるIDパスと、これから暮らすキャンパス内にある学生寮の鍵を受け取ることになっていたからだ。
けれど受付の女性は手元のマウスをいじり、パソコンのディスプレイを見ながら言った。
「あら、この部屋の学生は、ちゃんと到着しているわよ」
「……へ?」
「もう鍵は渡してあるわ」
入寮リストにチェックが入っているもの、とそっけなく言いつつ、彼女は渡した書類を乱暴に突っ返してくる。仁志起は呆然とするしかない。しかも相手の女性は、まるでジロジロと不審者を見るような目つきで仁志起を睨む。
なんだか、子供のいたずらだと思われているようだ。こんなガキが何をしに来たのかしら、といった気配は、言葉にしなくても伝わってしまう。しかし、だからといって、ここですごすごと引き下がっている場合ではない。
学生寮の部屋にもランクがあり、キャンパス内でも、より校舎に近かったり、新しくて機能的だったりするところは競争率が高いのだ。
それでも仁志起はインターネットを使った入寮手続きで希望通りの部屋を確保したが、家賃が当初、考えていたものよりも高くなって予算オーバーしてしまったので、その分を夏のバイトでちゃんと稼いできた。
それなのに、その部屋の学生はもう到着していると言われ、納得できるはずがない。
「待てよ!ちゃんと確認してくれよ!オレはちゃんと入学許可をもらった学生なんだから、もう一度、しっかりと調べてくれ!」
仁志起がしつこく訴えると、押し戻された書類に目を向けた女性は、やる気のなさそうに手をキーボードに置いて、パチパチと打ち始めた。
「……ったく、その書類、どこかで拾ったんじゃないの? ミスター・サトーでしょ? サトー、サトー、サトー……コーイチ・サトー」
その呟きを聞いて、あわてて仁志起は大声で叫んだ。
「違う! オレは佐藤仁志起! オレの名前は、ニシキ・サトーだ!」
「え、ええっ? ニシーキ?」
驚いて目をパチパチさせた女性も、あわてて一年生のリストをサーチした。
よく見れば、今年の一年生は日本から留学してきた学生が十一人いて、その中に仁志起と同じ佐藤という名字が、もう一人いるのだ。
そして、[Pre-MBA]に参加するために先にボストンに到着した、もう一人の佐藤が手違いで仁志起がゲットした部屋を使っていたらしい。
「……あら、そうだったの。でも、部屋に入ったサトーも気がついてなかったし、もう一ヶ月は暮らしてるんだし、引っ越しさせるのはかわいそうじゃない?」
まったく詫びる気配もなく、受付の女性は笑う。
だが、しかし、はるばる日本からたどりついた途端、自分の部屋が奪われていた仁志起だってかわいそうだと思わないのだろうか。
そう思った仁志起は、日本を離れてから乗り継ぎを含めて半日以上も経って、さすがに疲労もマックスに近づいてきたこともあって、仏頂面で言った。
「わかりました。だったら、もう一人のサトーさんが入るはずだった部屋があるはずですよね。そっちでもいいです」
「それは無理ね」
「なんで?」
あっさりと言い返され、仁志起は問い返した。すると、受付の女性はいかにもガイジンらしい仕草で肩をすくめてみせた。
「なぜか余っていた部屋には、もうキャンセル待ちだった学生が入ってるの」
こんな直前に到着する学生なんていないし、トラブルで空いていたとは思わなかったのよね、とあっさりと答えた女性は、これでもう説明は済んだとばかりに微笑む。今までで一番、愛想がいい笑顔だった。
けれど、そんな笑顔にごまかされる仁志起じゃない。さらに食い下がる。
「それじゃ、寮の部屋をキープしてたはずのオレは、これからどうすればいいんですか!」
「そうね……とりあえず、キャンセル待ちの名簿に名前を登録してね」
「キャ、キャンセル待ちって……待ってよ、だったら寮の部屋が空くまでの間、オレはいったいどこで寝泊まりすればいいわけ?」
「ホテルに泊まれば?」
頭のいい人間ばかり集まる学校に留学してきたのに、そんなことも考えつかないの、といった呆れ返った表情をする女性に、仁志起は絶句した。
(そ、そ、そそそ、そんな金ねーよ―――ッ!)
呆れ返るのはこっちだ、ふざけてんじゃねえッ、と罵詈雑言が頭の中を駆けめぐるが、一応、フェミニストの仁志起は声には出さなかった。というか、あまりにもひどい対応に、情けなくも声が出なかったのだ。
とにかく自分は、そんな無駄な出費を許せるような状況にない。
しかも、もう明日には学校の授業も始まるのだ。
生活の拠点が決まらなかったら、勉強にも集中できない。このハーバード・ビジネススクールは授業料が高いだけじゃなく、成績が悪ければ否応なく退学させることでも有名な、本当に過酷な学校なのだ。
ここで引き下がるわけにはいかない。絶対にいかない。
仁志起が、あらためて自分を奮い立たせていると、不意に背後から大きな音がした。
びっくりして振り向くよりも先に、オフィスに飛び込んできた巨体が、受付の女性の前にいた仁志起を吹っ飛ばさんばかりの勢いで近づいてくる。
「もう無理だ!あんなところでは暮らせない!寮の部屋を変えてくれ!」
そう叫んだのは、見上げるほど背が高い白人青年だった。
すばしっこい仁志起はあわてて脇に避けたが、受付の女性に食いつかんばかりに詰め寄る彼は、アメリカンフットボールでもやっていたに違いない。それほど体格がよかったのだ。だが、その巨体を揺るがすような彼が、頭から真っ白な湯気を噴きそうなくらい怒り狂っているとしても、寮の部屋と聞いては黙っているわけにはいかない。
自分のほうが先客だと思って、仁志起が毅然とした態度で口を挟もうとすると、受付の女性が気怠そうにキーボードを叩き、ディスプレイを眺めた。
「……うーん、校舎から遠くなるけど、一番奥にある寮が一室だけ、空いてるわ」
「そこでいい!どんなに校舎から遠くなっても、こうるさくて神経質なイギリス人が隣にいる部屋じゃなければ、どこでもいい!」
あーら、そーなのォ、と呑気に答えながら、彼女は巨体の彼が投げつけた鍵を受け取り、書類にサインをさせると新しい鍵を渡した。
鍵を受け取った途端に、巨体の彼は飛び込んできた勢いのまま、引きずってきた荷物を片手にオフィスを飛び出していった。なんというか、まさに一瞬の嵐のような出来事だった。しかし、呆然としていた仁志起は、訝しげに受付の女性を見つめる。
「……さっき、部屋はないって言ってなかった?」
「ええ、ミスター・サトーがキープした部屋はないって言ったわよ」
にっこりと笑いながら悪びれた様子もない返事をもらって、仁志起は力一杯に脱力した。ふざけんな、と大声で叫びたい気分だ。
だが、それでも、めげている場合ではなかった。
「だったら、たった今、空いた部屋でもかまわないと言ったら?」
「まあ、なんということ!ものすごくラッキーじゃないの、あなた!空き部屋ができた瞬間にやってくるなんて」
仁志起が呻くように訊ねると、受付の女性はほがらかに笑いながら手続きをしてくれた。
おいおい、違うだろ、と突っ込む気力さえなくなっていた仁志起だった。
つまらないことで疲労が増した仁志起が、ようやく手続きを済ませて自分が暮らすことになる寮にたどりついたのは、午後も遅くなってからだった。
肩に食い込むバックパックを背負い、大荷物を積み上げたカートを引きずって、オートロックになっている鍵を開けて学生寮に入ると、にぎやかな声が聞こえてくる。
ここは学生寮の中で、もっとも校舎に近くて新しいところだ。
学生にも人気があるし、設備も充実している。
逃げ出した新入生のおかげで、当初、キープしていた部屋よりも好条件の部屋になったのは、不幸中の幸いだった。そうでも思わないと、やっていられなかった。
(精神的にヘロヘロになったけど……)
そう独りごち、深い溜息を漏らした仁志起は、部屋番号を確かめてからエレベーターホールに向かった。
エレベーターの向こうには、どうやら広いホールがあるのか、にぎやかな声は奥から聞こえてくる。
明日からの新学期を控えて、パーティーでもやっているんだろうか。
余裕があるというか、ほとんどの新入生は、ここ数日中に到着していたというから、おそらく仁志起が最後の一人かもしれない。
にぎやかで楽しそうな声が漏れ聞こえてくると、自分だけが除け者になっているような孤独感に襲われ、仁志起はあわてて勢いよく頭を振りまくった。
これは自分の悪いくせだ。
子供の頃、いじめられた経験が、心細さを感じた時に不意に甦り、ブルーになってしまう。だが、もう自分だって、いい大人なのだ。
幼い頃の心的外傷をいつまでも引きずっているのはみっともないし、二十八歳にもなった男が心細くて寂しいなんて弱音を吐くのは情けない。
そう自分を叱咤していると、やっと降りてきたエレベーターの扉が開いた。
乗ってきた数人が降りるのを待っていれば、そのうちの一人が訝しげに声をかけてくる。
「……到着したばかりの新入生?」
仁志起は頷き、ガイジンみたいに肩をすくめながら答えた。
「ああ。逃げ出したヤツの代わりに、空いた部屋に入ることになった」
そう端的に答えると、ドッと笑い声が上がった。
「あの部屋に入るのか!」
「ようこそ、部屋は十階だよ」
「それにしても、ジェイク。本当によかったじゃないか。今度は小柄なアジアンだ。きっと物音ひとつしないはずだよ」
その言葉とともに肩を叩かれたのは、降りてきた集団の中で、もっとも背が高くて姿勢のいい、金髪の青年だった。
しかも、その金髪が縁取っている顔は、作り物のようにきれいだ。
細いシルバーフレームのメガネの奥にある瞳も、まるで吸い込まれてしまいそうな深いブルーだった。
(……すっげーハンサムだな、こいつ)
思わず、その整った美貌に見とれてしまった仁志起が、マヌケなほど大きく口を開けていると、相手はさりげなく手を差し出した。
「はじめまして、きみの隣の部屋になるジェイク・グレアムだ」
「こ、こちらこそ、はじめまして!佐藤仁志起です」
「……サトーニッキー?」
「さとう、にしき!」
「ニシキ?」
「そう!」
握手を交わしつつ、日本語の言い慣れない名前をわりときちんと発音してくれたジェイクに、仁志起は好感を抱いた。物腰や言葉遣いが丁寧で、品がいいというだけでなく、なんとなくいいヤツだ。そう思える。
しかも、その直感は正しかったのか、ジェイクは一緒にいた仲間がホールに向かうのを見送り、仁志起の持っていたカートに手を伸ばしながらエレベーターに戻ろうとする。
「手伝うよ。部屋まで案内するついでに」
「あ、ありがとう」
たいしたことじゃない、とあっさりと答えつつ、仁志起の引きずるカートを引き受けてくれたジェイクはエレベーターに乗り込み、十階のボタンを押してくれる。
「ニシキさえよければ、荷物を置いたら、下でやってるパーティーに顔を出さないか?」
「いいのかな、オレが行っても」
新参者ということもあって、ちょっと気後れした仁志起が問い返すと、ジェイクは微笑んだ。
「ああ、歓迎するよ。この寮の住人であれば誰だって」
明日からの新学期に向けての景気づけのようなものだから人が多いほどいいよ、とにこやかな笑顔とともに誘ってもらって、仁志起はたまらなく嬉しくなった。
この寮を逃げ出していった新入生は、隣の部屋にいるのは、こうるさくて神経質なイギリス人だと言っていたが、全然、違うじゃないかと思う。
七転び八起きでも、結果オーライ。基本的にポジティヴ・シンキングの仁志起は、ボストンに無事に到着して、ようやく住む場所も決まり、明日からはちゃんと授業を受けられるということに満足して、すっかり舞い上がっていた。
|
|
「本当に、まるで覚えていないのか?」
「……うん」
仁志起が頷くと、ジェイクは深い溜息を漏らす。
すでに仁志起はちゃんと服を身につけて、ソファに座っていた。
二人が生まれたままの姿で重なり合っていたベッドの周囲に、放り出されていた仁志起の服を拾い集めてくれたのはジェイクだ。
しかも、仁志起は身体中が汗や何やら考えたくないものでベタベタしていたので、ジェイクの部屋のシャワーまで借りている。自分の部屋はすぐ隣にあったが、素っ裸で廊下を歩くわけにもいかなかったからだ。
その上、自分は手早く着替えてしまったジェイクは、鍵を借りて仁志起の部屋に行くと、玄関に置きっぱなしになっていたバックパックを持ってきてくれた。
おかげで、シャワーを浴び、長旅でほこりっぽくなっていた服を着替えて、こざっぱりとしたTシャツとジーンズ姿になった仁志起は、ジェイクから促されるまま、リビングのソファに腰を下ろしたが、すっかり途方に暮れてしまった。
どんなに思い出そうとしても、記憶は途切れている。
もちろん、ジェイクに案内してもらって十階の一番端にある自分の部屋に入って、持ってきた荷物を玄関に置いただけで、すぐに引き返してホールでやっていたパーティーに加わったことは、ちゃんと覚えている。
仁志起が、今さっき到着したばかりだと教えると、そこに集まっていた二十人ほどの新入生は陽気な声を上げて歓迎してくれたのだ。
はるばる海を越えて、アメリカのボストンまでたどりつき、のっけからトラブルに巻き込まれ、心細い気分になっていた仁志起は、大変に感激して勧められるままにシャンパンを飲み、グラスを干せば、さらに注いでもらって飲み干してしまった。
半日近い飛行機の移動で疲れもあったと思うが、すぐさま酔いが回ったらしい。
シャンパンってうまいなあ、ボストンっていいところだなあ、と思ったあたりで、もう記憶が曖昧になっている。あとは何も覚えていない。次に気がついた時には、ジェイクのベッドにいて合体中だった。
(……ああ、もう最悪だ)
思わず、仁志起も両手で顔を覆って、深い溜息を漏らした。
自分の記憶には残っていないが、ジェイクが言うにはシャンパンでいい気分になった仁志起は、誰彼となく乾杯しまくり、小柄でキュートだと女性陣に突っつき回され、二十八歳だと告げれば、全員が驚き、パーティーは大変な盛り上がりだったらしい。
そして、ペット扱いする女性たちから救い出してくれたジェイクにくっついたまま、ちっとも離れず、あげくの果てには青い瞳がきれいだ、ハンサムでかっこいいと誉めまくり、さりげなく部屋に誘われた時にも嬉しそうについてきたという。
そう独りごち、仁志起は手のひらの間で薄目を開ける。
単身者用の寮の部屋は、広々とした1LDKだ。
今、仁志起が所在なさげに座っているのは、リビングのソファだ。続き間になったダイニングキッチンには、ジェイクが立っている。お茶でも淹れよう、とキッチンに入った姿勢のいい長身は、ごく普通のシャツとジーンズを身につけている。
だが、なんとなく品がいい。
ベッドでは外していたシルバーフレームのメガネも、知的な雰囲気に一役買っている。
飾り気のない細いストライプの入ったシャツも、いい具合に色が褪せているブルージーンズも、洗練されていて、どうやらすごく仕立てがいいもののようだ。
確かに、第一印象でもハンサムだと思った。
だから酔っぱらっていたら、はっきりいって本人にも言うに違いない。
(でも……でも、もうちょっと危機感、持てよ、自分!)
しかし、そんなことを今さら嘆いても、もう遅い。両脚の間には口では言えないような場所に、微妙な違和感があった。まだ固いものが挟まっているような異物感を味わうたびに、ずぶずぶと落ち込める。
しかも、さらに下半身は妙にすっきりしていた。
ジェイクから教えられたところによると、仁志起は彼の手や口で三度も達したらしい。
すっきりするのも当然だった。
この年齢になっても、いまだ彼女の一人もいない仁志起は、ハーバード・ビジネススクールの合格が決まり、ボストンに出発するまでの間、本当に忙しくて、あわただしかったこともあって、自分ですることさえなかった。
それだけに、相当、溜まっていたようだ。生まれて初めて知った激痛に飛び起きるまでの間、めちゃくちゃいい気分になっていたのは、つまり、そういうことなんだろう。
(しかし、オレばっかり、気持ちよくなっちゃって……さあ、自分の番だと思ったら、あれじゃ、ジェイクもかわいそうだよな)
ようやく合体と思ったら力の限りに絶叫され、合意だと思っていたのにレイプだと言われて、これでは災難だったのは、仁志起なのか、ジェイクなのか。逆の立場から考えると自分ばかりが被害者で、悲劇の主人公というわけでもないことに、仁志起は気づいた。
だいたい、仁志起は男だ。
その上、二十代後半の男のバック・ヴァージンなんて、たいした価値があるはずもない。
それにとんでもないところの激痛といっても、昔、道場で肩を脱臼した時のほうが、はるかに痛かったような気がする。
そんなことをぼんやりと考えていると、シュンシュンとお湯が沸く音が聞こえてきた。
キッチンに立っていたジェイクは、手慣れた様子でティーポットにケトルの熱湯を注いだ。
一連の動作も流れるようで、まったく無駄がない。見るともなく眺めていると、一度、注いだお湯を捨てて、あらためて茶葉を入れたポットにお湯を注ぎ直している。
そして、トレーに茶器をセットすると、リビングまで運んできてくれたジェイクに、仁志起は訊ねた。
「……どうして、お湯、一度、捨てたの?」
「最初に注いだのは、ポットを温めるためのものだから」
そう答えたジェイクは、ミルクはいるか、と訊いたので、仁志起は頷いた。
すると、トレーの上にあったミルクピッチャーをつかんだジェイクは、冷たいミルクを静かにティーカップに注ぎ入れてくれる。
「ミルクは冷たいまんま?」
「温めると独特の匂いがして、お茶の味をそこねる」
「へー」
感心する仁志起の斜め向かいにあるソファに座ったジェイクは、優雅な手つきで茶器を扱う。
いわゆる、おいしくお茶を淹れるコツ――ゴールデンルールというヤツだろう。
以前、いつも世話になっている道場のお嬢さんが紅茶を淹れてくれた時、あれこれと小難しいうんちくを聞かされたことがあった。
けれど、ジェイクのそれは一連の動きに無駄なく優雅なせいか、武道の演武のように人の目を引きつける。熱湯を注いだポットに保温のためらしきカバーをかぶせると、しばらく待つことになったが、その間にも、お茶のいい香りが漂ってくる。特に会話はなかったが、気まずい空気も流れなかった。
時計を見ると、もう日付も変わる時刻だった。
仁志起にとっては七転八倒というか、トラブル続きの多事多難な一日が、ようやく終わろうとしている。
(なんつーか、やっぱ、アメリカって……いや、外国って、すげーところだな)
渡米する前に、さんざん注意を受けたし、助言ももらったが、こうやって経験してみないことにはわからないものだと実感する。
すると不意に、ジェイクがポットに手を伸ばした。
おそらく、もう飲み頃だということだろう。ふたつのカップに上手に注ぎ分けると、メガネの奥にある青い瞳が視線で、どうぞ、といった感じで勧めてくれる。
「……ありがとう」
行儀よく礼を言って、仁志起はティーカップを手に取った。
真夜中になれば、いくらか空気も涼しくなり、熱いお茶に満たされた温かなカップのぬくもりが心地よかった。そっと口をつけば、優しい味わいのミルクティーもおいしい。
「おいしいね、このお茶……」
「どういたしまして」
仁志起が思わず、正直に呟くと、ジェイクははにかむように微笑み、自分もお茶を飲む。
しかし、こんなふうに呑気に向かい合って、お茶を飲んでいるような場合でもないような気もする。仁志起は、おそるおそる訊ねた。
「……あのさ、ジェイクってさ」
言いづらそうに口ごもれば、問いかけるように青い目が見つめてくる。その瞳に背中を押され、仁志起は意を決すると、さらに呟くように続けた。
「あの……ジェイクって、ゲイなの?」
「さあ?」
「さあって、どういう意味?」
曖昧な返事に顔をしかめると、ジェイクは肩をすくめる。
「言葉の通りだ。自分でも、よくわからないんだ」
性別よりも人間性に惹かれるから、ゲイというよりもバイかもしれない、と答えたジェイクは、お茶を飲みながら、さりげなく訊ねる。
「それで? ニシキはゲイ?」
「……オレも、よく、わかんないんだけど……でも、ゲイかも」
「かも?」
訝しげに問い返されて、仁志起は両手でカップをくるみ込んだまま、口唇を尖らせた。
ジェイクは急かすことなく、ただ静かにお茶を飲んでいる。仁志起が自分から口を開くのを、待っているようだ。なんというか、きみが話したいなら聞く準備はできているよ、といった気配が有り難い。
はっきりいって自分でも、うまく説明できないモヤモヤした気持ちなのだ。
それでもキッカケがつかめず、仁志起が黙り込んでいると、ジェイクはポットを持ってお茶のおかわりを勧めてくれた。あらためてカップに注いでもらった熱いお茶にミルクを注ぎながら、仁志起は呟く。
「……オレ、恋愛って、よくわかんないんだよ」
ちゃんと女の子とつき合ったこともないし、好きだーって思ったこともないし、とぼそぼそと呟きつつ、この年齢になっても、そんな発育不全な自分に嫌になる。
だが、ジェイクは何も言わずに、さらに視線で先を促す。
仁志起も両手でつかんだカップに視線を落として、うつむいたままで続けた。
「ともかく、人を好きになるってのは、よくわかんないんだけど……でも、すごくあこがれてる人はいるんだ。先輩っていうか、学校だけじゃなくて道場でも一緒だったんだけど」
「ドージョー?」
「あ、オレ、柔道とか空手とか習ってたからさ」
オオ、ジュードー、カラーテ、と青い目を瞬かせるジェイクは、まさにガイジンらしい仕草で肩をすくめたので、つい仁志起は笑ってしまった。
「笑うなよ、ニシキは武道家なのか?」
「うん」
照れたように顔をしかめたジェイクに頷き、仁志起はかいつまんで事情を話した。
幼い頃から、同年代の子供の中でも一回りは小柄だった仁志起は、さらに名前のこともあって、さんざんいじめられていた。
仁志起という名前は、仁義を持って自らの志を起こす、という意味で、今は亡き祖父が初孫であった自分につけてくれたが、名字が佐藤となると日本人は誰でも思い出すものがある。
佐藤錦――そう、日本でもっとも有名なサクランボの種類だ。
きれいな赤い宝石みたいで甘くておいしいし、同じ名前というのもなんとなく親近感があり、幼い頃は大好きだった。
だが、小学校に入ると同級生にからかわれるようになり、サクランボを食べていれば共食いと笑われた。しかも、生来の負けず嫌いが災いして、いちいち言い返したり、怒ったりすることで、余計に相手がおもしろがり、いじめがエスカレートするなんて気づかなかった。
それに祖父がつけてくれた名前でからかわれ、いじめられているなんて、家では口が裂けても言えなかった。言いたくなかった。
そんな頃、いじめっ子に靴を隠され、下校時間に半べそをかきながら探し回っている仁志起を助けてくれた上級生がいた。小柄な仁志起には見えないし、手も届かない靴箱の上に隠された靴を見つけてくれたのは、柔道部の六年生だった。
当時、仁志起は三年で、小学校での三年の年の差は大きかった。
先生からの信頼も厚い優等生だった先輩は、たまたま目に入ったから渡してくれただけでも、仁志起にとってはヒーローになった。
その先輩がいるから柔道部に入って、彼が通っている道場にも入門して、空手もやっていると知れば、自分も習った。彼を追いかけて同じ中学にも入ったが、三年違いということもあって、仁志起が入学した時には卒業しているのが切ない。高校もそうだ。ようやく大学は一年限りでも一緒になれたが、先輩との接点はないに等しかった。
おかげで会えるのは、一緒に柔道や空手を習っていた道場の新年会だけだった。
仁志起は成長してからも頻繁に稽古に通っていたが、先輩は年に一、二度、顔を見せるだけになっていたからだ。
けれど、二年前の新年会の時――仁志起は、聞いてしまった。
すでに就職した先輩が現在、海外への留学を目指していて、第一志望はハーバード・ビジネススクールだということを。
すぐに調べてみれば、そこは社会人を対象にした経営を学ぶ大学院だという。
合格したら、先輩と一緒に二年間の留学生活を過ごせるかもしれない。
そのあこがれだけを胸に抱き、仁志起は留学しようと――このハーバードビジネススクールに入りたいと思ったのだ。
だが、そんな仁志起の話を聞いたジェイクは、心底、呆れたように訊ねた。
「待てよ。ずいぶんと運まかせだな。万が一、自分は受かったとしても、その先輩は落ちるってことは考えなかったのか?」
そう言われ、仁志起も照れたように頭を掻いた。
「そうなんだよね、実は……ほら、こっちのビジネススクールってさ、出願期間が長くて三回もあるじゃん。オレはさっさと最初に出願したけど先輩は最後の三回目で、これはやばいかもってちょっと思った」
「ちょっと?」
「うん。ちょっとだけ」
ジェイクから苦笑混じりに問い返され、仁志起は笑顔で頷いた。
そして、ぬるくなってきた紅茶で喉を潤してから答える。
「なんていうのかな、オレ……もしも、先輩と一緒に合格できなかったら、オレだけでも、先輩だけでも、片方だけが受かったら、もうあきらめようと思ってたんだ」
ずっと追いかけてるだけって、なんとなくストーカーみたいで自分でも気持ち悪いし、先輩のことはあこがれてるけど、これがどういった気持ちなのか、自分でもよくわからなかったし、と呟く。
仁志起は、自分でも不思議だった。
自分は、ゲイなんだろうか?
本当にわからない。仁志起には、性別よりも人間性に惹かれると、はっきりと言えるジェイクのような基準はなかった。
ただ、先輩に優しくしてもらった時に、とても嬉しかった。
同じ道場に通って稽古をするのは楽しかった。もっと親しくなれたらいいと思い、同じ学校に通ったが、学年が離れているので、それは難しかった。だから、もうずっと一生、このままだと思っていた。
けれど先輩がMBA留学をするつもりだと知り、仁志起の中でスイッチが入ったのだ。
恋とも呼べないような淡いあこがれに、区切りをつけるためにも。
固い決意を秘めた仁志起の表情に思うところがあったのか、ジェイクは優しい声で訊ねる。
「それで、その先輩は? 来ているのか、ボストンに」
「うん。合格した」
「よかったな。だったら、一緒に合格祝いとかしたのか?」
「ううん。先輩は知らないんだ。オレが受験したことも、一緒に受かってることも」
「どうして?」
驚いて青い目を瞬かせるジェイクに、頭を掻きながら仁志起はうつむく。
「いや……言うタイミングがなかったし、合格した人が集まるような場所にも、オレは忙しくて行けなかったし」
そうなのだ。合格通知が来ると、留学内定者は忙しくなる。事前の予備知識を仕入れるために卒業生と会ったり、同じ時期に留学する人たちが集まる親睦会があったり、家族や友人知人から壮行会を開いてもらったり、なかなかあわただしい。
だが、仁志起は華やかな席には一切、縁がなかった。自費留学の仁志起は、留学資金のことで手一杯だったからだ。
「だから、オレ、明日の入学式……ウエルカム・セッションだっけ? そこで先輩に会うのが、楽しみなんだ」
きっと驚いてくれると思うから、とはにかみながら呟くと、ジェイクは微笑んだ。
「そうだな。再会を喜んでくれるといいな」
「うん」
頷いて紅茶を飲み干した仁志起は、大きく息をつくとソファから立ち上がった。
「それじゃ、オレ、部屋に戻るよ」
「ああ」
「おいしいお茶、ごちそうさま」
丁寧に礼を言うとジェイクは肩をすくめて、脱いだ服やバックパックを持った仁志起を部屋のドアまで見送りについてきてくれた。仁志起はドアに手をかけて、ちょっと躊躇してから、意を決して口を開いた。
「あの……ジェイク、お願いがあるんだけど」
「なんだい?」
「ええっと……」
仁志起はうつむいたまま、呟くように言った。
「あの……今夜のことは、オレ、恥ずかしいけど、酔ってたし……だから、迷惑をかけちゃって悪かったと思うし、すごく反省しているし……だから」
言葉を選びながら囁くような声で呟く仁志起が口ごもると、ジェイクは何もかもわかっているというように頷いた。
「ああ、ニシキ。今夜のことは酔った上のあやまちということで、お互いに忘れよう」
「……あ、う、うん、そうしてもらえると助かるよ」
「それじゃ、友だちからやり直そう」
そう言いながら、ジェイクは片手を差し出す。仁志起は一瞬、躊躇したが、それでも手のひらを出して握手を交わしてから別れを告げる。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
静かにドアを開けて、仁志起は廊下に出ると振り返りもせずに隣の部屋に向かった。
そして、自分の部屋に入って、持っていたものを放り出してから、ずるずると床に座り込む。
なんだか、ものすごく疲れていた。
精神的にも、肉体的にも。
だが、しゃがみ込んだままで膝を抱えると、あらぬところに鈍い痛みが走る。
「……ッ」
低く呻いて舌打ちした仁志起は自己嫌悪の中で、それでも、はっきりと決めていた。
隣の部屋の、とってもジェントルマンなイギリス人は、いい人だ。
けれど、彼がどんなにいい人でも、優しい紳士でも、あんな間違いをしでかした後ではとても親しくなれそうにない。それこそ、友だちからやり直そうと言ってもらったが、友だちだけにはなれないとも思う。すごく残念だと感じる反面、自業自得だった。
(……あーあ、ホントにオレ、ダメダメじゃんか)
そう独りごち、仁志起は鼻をすすった。
しかし、ベソをかいている場合じゃない。いまだ前途多難に思える留学初日なのだ。
そう思ってから深い溜息をついた仁志起は。つい声に出して呟いていた。
「……オレ、二年間、ここでやっていけんのかな」
この続きは、春発売予定『ラブ・エリート』にてお楽しみください♪
|
|
/□ドリームワークス/img/0.gif) |
| WEB小説トップへ戻る |
/□ドリームワークス/img/0.gif) |
| ご意見・ご感想はこちら |
| information@onetwomagazine.jp |
/□ドリームワークス/img/0.gif) |